この記事は、義務教育に疑問をもつ人のために書かれたものです。
あなたが見つけたその小さな疑問は、自身の自立した学びを継続させていくためのエンジンになるはずです。

教育には、本音と建て前があります。
その本音に気付き始めた人は、1つの義務教育の問題から自分が生きる上での学びになり、新たな価値へと変わるかもしれません。

『そうだ!分かる人には、分かる!』という思いで綴ります。

では、本題へ。

 

 

義務教育問題その53

『ロシア詩を暗唱していた10歳少年を強制連行。物乞・自己表現・勤労について。』

 

 

http://ロシアに衝撃、詩を暗唱していた10歳少年を警察が強制連行

AFPBB News  2017.5.8

【AFP=時事】ロシアで、首都モスクワ(Moscow)の街頭で詩を暗唱していた10歳の少年が警察官に手荒く連行される様子を捉えた動画が、国民に衝撃を与えている。

 地元テレビで放映された携帯電話で撮影された映像には、「助けて!」などと叫ぶ少年が力づくで連行され警察車両に押し込まれる様子が捉えられている。

 メディアがオスカル・ミロノフ(Oskar Mironov)君と伝えているこの少年について警察は、路上で物乞いをしていたためと主張しているが、少年の父親は、息子は演劇の練習のために声を出して詩を暗唱していただけだと語っている。

 そばにいて少年が連行される際にその様子を携帯電話で撮影していた少年の継母は、後を追って警察署に行ったが、活動家らの拘束状況について記録しているウェブサイト「OVD-Info」によると、2人は4時間後に警察署から出てきたという。

 重大犯罪を精査するモスクワの捜査委員会は、少年の身柄拘束の際の警察の対応と、両親の行動について調査する方針だという。モスクワ警察も、現在、事実を調査中で、結果は公表すると語っている。
 ロシア警察をめぐっては、モスクワで3月に行われた野党指導者アレクセイ・ナワリヌイ(Alexei Navalny)氏が組織した反政府デモで多数の若者の身柄を拘束した機動隊の強圧的な手段に批判が集まっていた。

 

【以上引用】


 

 

私は、このニュースを受けて衝撃を覚えました。
ここでは、この少年が詩を暗唱していたのか、そうでなかったのかの事実を追究する目的ではなく、
本記事では、「乞食」という話題から『働く』ということについて考えます。

私たちの社会にも『決まり』がある故に、状況が上手くいかなかったり、生きづらさを感じることはないでしょうか。

 

日本では、乞食行為が禁止されているのは、以下の理由があるそうです。

http://「乞食行為」配信で逮捕…そもそもなぜ法律で禁止されているの?

『軽犯罪法は、こじきをすることや人にこじきをさせることを軽犯罪として規定しています。

こじきをすることや人にこじきをさせることが軽犯罪なのは、国民は本来自ら働くことによって自らの生活を維持・向上させるべきという秩序に反するからです。

憲法27条1項は、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」と定めています。

軽犯罪法1条4号も、「生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、かつ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの」を軽犯罪として処罰しています。

こじきをする者が社会に蔓延すれば、ますます働かない者が蔓延し、社会や国の発展は望めません。

そこで、こじきが軽犯罪とされているわけです。』(引用)

 

 

 

 

「働くこと」とは、それに見合う報酬を受け取る手段であると同時に、自己表現でもあります。

この両方がバランスよく行えている場合、働く楽しさ、面白さが感じられるからです。

法律で定められている「勤労」の意味を見てみると、
心身を労して仕事にはげむこと。
「共に王事に―せよ」〈藤村夜明け前
賃金をもらって一定の仕事に従事すること。

とあります。

 

 

日本では、義務教育システムを敷設し、多くの人が義務通りに、躊躇することなく労働します。

一方で、働くこと、つまり『勤労』が、心身を労して仕事にはげむこと、苦労することだと認識するだけでは、
次世代を生きる人にとっては、物足りないような気がしています。

勤労とは、自分で仕事を生み出して価値や時間、お金を交換し合うことだと私は思います。

 

では、この「勤労」とは、苦労することでしょうか。
苦労を要するのは、一定の能力でしか人を評価しない仕組みになっているからです。

その理由は、日本の教育の評価、価値が一定の能力に偏っているためです。

しかし、多様な人間がいて、能力を固定し、偏らせることの方が実は難しく、不自然なことなのです。

人は、働くことで成長します。
その手段は、生きる時間の分だけあってよいと思います。

 

 

生涯にわたって働くことを考えると、「定年退職」という概念はとてもナンセンスだという事が解ります。
寿命が延び、人生の様々な経験を通して学び、自身を磨き続けた人には、勝てないでしょう。

そして、そのような意思を抱く人が社会に溢れたら、今よりずっと活力のある社会になります。

不健康、頑固さ、執着などによって、退化していく人ももちろん、大勢おられます。
見方を変えれば、退化させられていると思わざる得ない仕組みも存在しています。

 

 

健全な精神と、健康な体で生涯を全うするという視点に立てば、私たちは長距離マラソンを走ることになります。

そのように考えると、仕事とはあらゆる物事、状況から自分自身が学んでいくための手段だとすれば、
義務だとか、決められているからではなく、誰もが自由に従事できることが大切です。

 

今、日本では、お金がある、ないではなく、自分の意思さえあれば、どこでも何かしら働くことができます。

 

上記で、私は、働くとは、自己表現であると述べました。

それは、年齢に関係なく、『誰かのために。後世のために自分の命をつかう。』ということですから、
勉強することも、手伝うことも、もちろん仕事をすることも、当てはまります。

 

 

つまり、学ぶことも働くことも生きることも、同じ意味であり、イコールなのです。

 

 

この『働き方』が、今、日本では大きく変わろうとしているのだと、私は見ています。

次世代の子供たちは、今とは全く違う働き方をしているでしょう。

 

 

 

みんな、自分の内にある「命の時間」の歯車を回し、自分の意志で働くための学び方を小学校、中、高校で教えていく必要があるのです。

 

 

 

 

 

 

 

このロシアの少年が乞食だと言われ、連行されることなく、自由に詩を暗唱し、朗読できる社会を。