この記事は、学校という場所に疑問をもつ人のために書かれたものです。
あなたが見つけたその小さな疑問は、自身の自立した学びを継続させていくためのエンジンになるはずです。

教育には、建前と本音があります。
その本音に気付き始めた人は、1つの義務教育の問題から自分が生きる上での学びになり、新たな価値へと変わるかもしれません。

『そうだ!分かる人には、分かる!』という思いで綴ります。

では、本題へ。

 

 

義務教育問題その16

学齢で区切る教育制度は、自然発生するはずの人と人との関わりや学び合いの時間を奪う。』

 

もし、本気で次期学習指導要領を現実化していくのであれば、システム自体を変えていかなくてはなりません。
同じシステム、土台の上で10年ごとにパフォーマンス(建前)を変えても、中身(本音)は何一つ変わりません。

義務教育は、そのようなことを繰り返していることに、お気付きでしょうか。

すでに時代は移り変わってきているのです。

変わろう!と言いながら、文言だけを変えて、義務教育というシステム自体を見直さないのはなぜでしょうか。

学校制度が始まって以来、『学齢』で区切られ、『同年齢集団』の中での学習スタイルが定着しています。

しかし、社会では年齢で区切られている環境はほとんどなく、多様な世代間で関わる方が多いのです。
私は、学校という場で、『学齢』基準で、学ぶ内容が決められているシステムの限界を感じます。

日本は、子供が生まれて、母子手帳に記される『発達』という側面が重視されますが、
子供の身体の発達と、知性、感性、精神性の高さが比例することはありません。

その子の成長するタイミングや速度、興味関心も、1人1人異なります。

 

日本の義務教育課程で学ぶには、学習指導要領に基づき、学年単位(学齢)で学習内容が決められています。

それらを最低限として、順序立て、それ以下でもそれ以上でもなく、その範囲内で行っていく必要があります。

その学習プロセスでは、誰かが作ったコースをその時数の中で行っていく仕組みです。

その学習スタイルは、ロボットなら可能かもしれませんが、生きている人間に適用しようとしても無理があります。

また、コマーシャル的な学び方であり、深い学びには繋がりません。
つまり、習得に繋がらなのです。

 

子供の様子を見ていると、学ぶ意欲が高い時というのは、その子の『得意』『好きなこと』を見つけるチャンスとなります。
その人が吸収したいだけ、その時に吸収した方が、高い知的活動となるため、効率的な学び方になります。

しかし、現実は、そのようなことはさせません。

例えば、目の前に美味しそうなホットケーキ(ある1つの事象から広がる疑問など)があったとします。
それを自分から欲して、求め、自分で作ったり、もう一枚欲しいといっている人に対して、

『あなたは、まだそれについて知らないくてもいいのよ。なぜなら、その次の学年でやると決められているからですよ。』
と目の前にあるホットケーキ(ある1つの事象から広がる疑問など)を見せなながらも、与えないのです。

そして、多くの教師はこう言います。

『ほら、見てごらん。まだ、このホットケーキを食べている人がいるでしょう。だから少し待ってあげてね。』と。

こうしている間に、人の好奇心は奪われ、目の輝きを無くし、人のやる気は奪われてしまいます。
この制度は、何もしなくても、無気力、やる気の低下に繋がる状態を生み出すことに、貢献しているのです。

 

日本の義務教育は、それを『平等』と価値付けます。

よく、子供のやる気を引き出すために・・・と、大人が躍起になる姿を見ますが、本来であれば、人は知的好奇心の塊のはずです。
無気力ややる気の低下は、その人自身の問題ではなく、義務教育が作り出しているのです。

 

 

例えば、算数も国語も、理科の社会も学齢という区切りのなかで9年間で完結するように縦系列で決められています。

それらを、一律した基準でケーキの層のように分断し、その分断された層を学年に当てはめていきます。

 

9年間という人生の時間を、1年1年間の学齢で区切って学習するメリットは、ありません。
同年齢で学習するよりも、異年齢で学習する方が生物の成長に合っているのではないでしょうか。

学習内容が決められているならば、それをどこでどのよに行ってもいいように、義務教育でシステム化すれば、
もっと、学習が日常化され、自分の意思によって進めることができるのではないでしょうか。

また、その学習の内容の中心となるのは、記憶力と判断力をはかるためのテストであることも問題です。

その問題を解決するために、私たちの幼い頃の感性と知性を満足させてはいけないのです。

 

 

私は、多くの子供を見てきましたが、学齢の壁を越えて学んだり、精神年齢の層で、共に学ぶ方が、いい学習環境だと思っています。

大人や子供という概念など関係なく言えば、年齢が低いからと言って、精神年齢が低いとは限りません。

すでに、様々な角度から世界を見渡し、自分の意思で生きている精神性の高い人がいます。

 

学習内容は、自分で決めて、自分で継続していくことのできる教育の仕組みは、学校ではなく、家庭から生まれるかもしれません。
そこに価値をおく、大人が一人でも多くいることが、子供の生きる可能性を広げ、後世へ残していきたい義務教育の価値だと思います。

 

 

 

今日のポイントの整理!

・人の無気力ややる気の低下は、その人自身の問題ではなく、義務教育制度が作り出している。

学ぶ意欲が高い時というのは、その子の『得意』『好きなこと』を見つけるチャンスとなり、その人が吸収したいだけ、その時に吸収した方が、高い知的活動となる。

日本の義務教育は、間違えた『平等』という概念が流布するおかげで、人の好奇心は奪われ、目の輝きを無くし、人のやる気は奪われてしまいます。

・人の身体の発達や成熟と、人の知性、感性、精神性の高さが比例することない。

・その子の成長するタイミングや速度は、興味関心も、1人1人異なる。