1人の人の才能や純真な思いが、そのまま探求され、表現され、未来へと知恵として
嘘偽りなく、繋いでいくことのできる教育へ。

 

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2017年1月3日、私は、初めて『あの日』著者小保方晴子を書店で手にしました。

久しぶりに、教育書コーナーに立ち寄った時、私が見ていたすぐ下の棚に、白い装丁のシンプルな文字が目に留まりました。
(講談社:掲載確認済み)

一連の騒動を終えて、今は、既に遅すぎると思ったけれど、あの時のメディアの過激な報道が印象にあり、すぐに記憶を呼び覚ましました。

冒頭の文は、私がこの本を読んだ最後に、心に思い、願ったことです。

私にとって、どの教育書よりも、生きる道しるべになる本でもありました。

ここでは、同じ時代に生まれた1人の女性として、そして1人の教師として、正直に今、本を読んで思ったことを記します。

 

 

 

 

 

 

 

筆者  小保方 晴子様
編集者  鈴木     哲 様

 

私は、今、教諭として働いております。
日々、教育現場の多忙さに吞み込まれそうになりながら、活字さえ、じっくりと読む時間がなかった私に、
歯切れよく語られる文章と、心の内がよく伝わる文章が心地よく、時間を忘れて読み耽りました。

時折、深呼吸がしたくなり、窓の外に目をやると、
木々の間から、雲一つない空が広がっていて、鳩が飛んでいる様子が目に入りました。

「現実は、どこにあるのか。」と疑い、探りながら、恐る恐る読み進めました。

同じ時代に生まれた、同じ女性が経験した事実かと思うと、とても信じがたく、
心を鬼にして、一文一文を目で追っていました。

 

私は、数年前のニュースや記事から、表に見える上辺だけを情報として読み取っていたため、
その時、自分が感じた「事実はどこにあるのだろう。」とふと疑問に感じたことを思い出しました。

あの時に、「なぜ、この人だけが表に出て話しているのだろう。」
「バラエティで取り挙げる必要はないよね。」

とただただ、傍観者の1人だったことを今、悔やんでいます。

読み終えた今の私は、心臓の鼓動が胸の奥深くから響き、いつもより速く聞こえてきます。
そして、テレビ報道の背景にあった、あの時の小保方さんの心境を想うと、嗚咽しそうになります。

私は、ここに書かれたものが、真実に近いものであれば、
世の中の全てを疑い、批判し、真っ新な消しゴムで、全てを消して、教育をやり直すべきだと強く思っています。

そして、私が目にする純心な子どもの発想やひらめき、好奇心、探求心が、
ある権力、マスコミ、一般人の低能さにより、歪められることが恐ろしくてなりません。

一体、何のための教育なのか。
誰のための教育であるのか。

と私は、自分自身の胸に鋭い刃物を向ける覚悟で思います。

事実ではないことが、マスコミで報じられ、仕組まれたかのように、伏線が張られて、事が運ぶ様子。

トイレにまで、記者が押し寄せ、ふわふわのマイクが頬に当たる恐怖、脅しのような言葉、そして、裏切り。

社会が一体となって、「悪」を仕立て上げ、「善」を作り上げる「構図」があるということ。

小保方さんが、私語さえ許されない監視された環境で、検証実験を行っている時、
ある女性が、「社会が一体となって、あなたをいじめている。」と言っていた記述に、
私は、目が覚め、電流が心身を貫いたかのような感覚と、衝撃的な事実を知りました。

この義務教育において、今、「いじめ」が言われているのも、この社会が一体となって行っている構図が
無くならない限り、「いじめ」はなくなることはないと、はっきりと思います。

「いじめ」はいけないことであり、教師は、それを監視し、管理する責任があると日々その重圧が強くなる一方で、
大人たちが、公共の電波を使用し、堂々といじめを実行していることに、憤りを感じました。

もし、私が、小保方さんだったらと思うと想像がつきません。

他人が語るようなことではないのですが、私は小保方さんが生きてくれていてよかったと心底思います。

そして、身体に刻まれているピペットマンを握る感覚と、夢にまで出てくる実験が愛おしく、
好きでたまらないという純粋な意思が、小保方さんの魂そのものだと思い、感化されました。

心身が衰弱し、「死にたい」と思い、孤独感と、絶望感、身体が悲鳴を上げ、魂までもが限界を叫ぶ状況が、
同じ時代を生きる、同じ女性に起きていると思うと、現実として受け止められないほどです。

「科学」という、真実に極めて近いかたちで理解しているものが、実は、そうではない。
混沌とした複雑な世界であることを思うと、どんな社会に私たちは身を置いているのかと絶望してしまいます。

私は、小保方晴子さんのことをよく知りません。
また、人の記憶もどこまで信用に値するのかは解りません。

しかし、小保方晴子さんのこの研究から、論文撤回までの報道について書かれた出来事は、
胸が締め付けられるほどに、文章からは伝わってきました。

それと同時に、科学者も教育者も、正直であることの強さと、生命の可能性と真理を追究していく姿勢は、
人間の人情など、不必要であり、結果として、守らなくてはならない倫理観だと思いました。

慰めや同情、見て見ぬふりは、科学者や教育者として、トップダウンなど関係なしに、
ただ一点の「発見」に懸ける仲間として考えるならば、許してはならない態度であることをこの本から学びました。

それが、本当に「世の中の人のためになり、公益になる」と私は思います。

また『情報との付き合い方と真実を知る術を、私たちはもてないのだろうか。』ということも問いました。
これは、科学の分野だけではなく、あらゆる分野にも当てはまることではないかと思ったからです。

他にも、私が、この本から学んだ教育的要素が沢山あります。

生命科学という領域について、私は、深く触れることなく教師になったので、とても興味深かったです。
なぜか、わくわくしました。

『細胞は、キラキラして輝き、美しい様子や、お互いに意識しながら生きている』ということ、
『私たち生命体の細胞は、どれほど美しいものであるのか』、自分の目で見たいと純粋に思いました。

そして、細胞が日々、変化していく様子を、子どもたちと観察ができたら、
義務教育の道徳において、副読本を用いて、『いのち』について考え、議論するよりも、
実際に見て、触れ、感じることが、子どもにとって深く、価値付けられる機会になるだろうとも考えました。

そして、小保方晴子さんの研究に向かう姿勢は、児童期の友人との関わりから端を発し、
純粋な生命に対する好奇心からきていて、並々ならぬ探求心、そして実験用のマウスを扱う時の内心の言葉から、
生命への思いやりと温かさが感じられました。

アメリアに渡り、幹細胞生物学の論文の歴史を遡り、その概念が確立されていなかった時の発生学の論文から、
『自由な発想と洞察の深さを読み取り、凝り固まった思考が解き放たれるような感覚を覚えた』という記述に
心打たれました。

日本のトップダウン型の組織編制についても知り、何のための、誰のための、発見と発明なのか?
と感じています。

 

子どもたちの発想の原点も、新しい宇宙を見るかの如く、好奇心に瞳が輝く瞬間があります。
その瞬間に出会ったとき、私は、教師になってよかったと自分の仕事を誇らしく感じます。

そして、私の心も一緒に、スパークしてしまうのです。

今の義務教育は、「これは、この方法で、こうなって、ああなって、だから、こうなるんだよ。」
と先に、説明したり、その発見よりも、どう説明させるかと焦り、すぐに言語化させるようなことをします。

本当は、現象やものと初めて出会ったときの強烈な印象が、人を感化させ、想像を広げ、
その瞬間に、その子が感じていることが全てであり、他の答えなんてないのだということに気付かされます。

 

そして、自分だけが感じられている世界。それが真実であり、世間の常識も歴史も、
それ以下の話しであることを、教師ならば、心がけておかなくてはならないと自分自身の在り方を省みます。

昨年の2016年の7月ごろに、ある子が見つけてきた美しい蝶の羽を観察をすることになったのです。

カナダから転入してきたばかりの子が、「もっと、よく見たい。先生、顕微鏡をもってきていい?」
と探求心の塊で、瞳を輝かせ、必死に私に訴えるので、「いいよ。おうちの人に相談してもってきてね。」
と言いました。

そして、翌日、みんなで、肉眼では見られないミクロの世界を初めて、覗いたのです。

子どもたちは、食い入るように単眼の顕微鏡の接眼レンズの中を覗こうとしました。

しかし、これが難しいのです。両目を開けたら見えなくて、片方の目だけを瞑ることができない子は、
色々と試行錯誤していました。

やっとの思いで見終えて、顔を上げた時の、あの嬉しそうな表情が私の脳裏に焼き付いています。

きっと、小保方さんもそんな純心な気持ちで、顕微鏡の中を覗いていたんだろうなと今、想像しています。

 

そして、「心の傷は治らない」と述べておられた小保方さんは、今、どのように過ごされているのでしょうか。
ご家族や友人の皆さんは、どれほどの憤りを感じて、待っておられるのでしょうか。

そして、編集者鈴木哲氏、講談社よって発行された『あの日』著書小保方晴子氏と、どんな経緯で、
一般市民の私が手にすることができたのでしょうか。

私は、この本を手にして、同じ時代を生きる、同じ女性として、
小保方晴子さんに、心からの自分の声を、届けたいと思いました。

そして、いつかお会いしたい!
素直に今、そう思います。直接、お礼を申し上げられる日が来ることを願ってやみません。