義務教育現場において、教師は容赦なく子どもを評価します。
「評価と指導の一体」と呼ばれ、どの教師も常に子どもを評価する視点をもちます。

私は、直接子どもと関わり、この「評価」について、本当に意味がある時間なのだろうかと疑問をもち、経験を積めば積むほど、「評価すること」への疑問が増していくのです。

「評価」とは、学校教育法施行規則の第24条で『校長は,その学校に在学する児童等の指導要録(学校教育法施行令第31条に規定する児童等の学習及び健康の状況を記録した書類の原本をいう。以下同じ。)を作成しなければならない。 』と示されています。

私たちが子どもの頃、いつも学期の終わりに持ち帰っていた「通知表」と呼ばれるものには、法的義務はなく、学校長の裁量に任されています。

しかし、今ではどの義務教育現場でも通知表と呼ばれるものが配られます。
http://学習指導要領・指導要録・評価規準・通知表について 文科省
「評価システム」は、2002年から「ゆとり教育学習指導要領」が施行され、それに伴い、学習内容、時数削減、週5日制、総合的な学習の時間の導入に合わせて、「相対評価」から「絶対評価」に変わりました。

しかし、「絶対評価」に変わっても、受験、進学、就職という義務教育システム上、結局どちらでも、子どもからしてみると同じことです。

 

 

私は、子どもが目にする「数値的評価」「個人評価」は、あまり意味がないのではないかと考えています。

なぜなら、1人1人の能力は、記される項目「関心・意欲」「技能」「表現」「知識」「理解」などの項目に当てはまらないものが大半を占めているからです。

それは、この評価は人のある一面しか見ておらず、さほど重要視するべきものではないということです。現場にいて私は、毎年、確信に変わっていきます。

 

子どもの能力というのは、全員が同じスピードで階段のように上がっていくものではありません。

どちらかというと、螺旋状で、ぐんと伸びる時もあれば、なだらかな曲線を並行していく場合もあるのです。

その中でも能力をバランスよく伸ばしていくことは重要です。

それは、社会にいる皆が同じことをできるようになればよいということでないと思います。

私は、直接子どもを関わり、内発的に沸き起る行動、疑問、思考過程が何よりも大切だと考えます。

本来であれば、その過程に沿いながら、今ベストな教育環境を子どもとつくっていくことが、その子を伸ばすことになります。

「動機づけ」「マインド」「やる気」などの研究がされ、これらの言葉をよく耳にします。しかし、私は、無理に子どもにやる気をもたせる必要はないと思っています。

人間は、赤ちゃんの時から好奇心で自分の周囲を探求します。

だから食べられるようになり、歩けるようになるのです。

それは、誰にも教えられていないのです。

この生物として、もともと備わっている好奇心の芽を、潰さないようにして6歳まで育った子は、他者からの外発的な動機付けなど関係なく自己を高めようとします。

しかし、この芽をつぶさないで6歳まで辿りつける子は、とても稀で少数です。

ほとんどが、現在の保育園、幼稚園、こども園で潰されてしまうのです。

 

もし、あなたが自分の意志で行動し思考する小学生、中学生だと仮定して想像してみてください。

義務教育課程で、毎日7時間、時間と課題をコントロールされていることに満足するでしょうか。

実際の子どもたちは、自分の集中力をそこに使うことを嫌がります。

自分で物事を考えられる能力がありながら、それを開花させられない状況が続くのですから、子どもにとっては不満であり能力は衰えていきます。

つまり、自分の意志でものを考える人は、この義務教育制度に物足りなさを感じ、外れてしまうのです。

そして、親の義務であるとして拘束させられるのです。

今、問題になっている、不登校、発達障害、夏休み前の自殺急増もこれが原因だと私は思います。しかし、現場ではアンケートを取る、人を付ける、新たな方針など意味のない対応ばかりが目立ちます。

 

 

逆に言えば、自分で物事を考えられない人にとっては、都合のよい場所です。

なぜなら、義務教育とは最低限度の知識・技能を身に付けることはできるのですから、そこに来さえすれば、教師は何らかの手立てを講じてくれます。

現代の義務教育の教師の仕事は、後者の子どもを育てることに焦点が当てられています。

そこに力を注ぎ、目を向け、平等という名の「公教育」を実践しているのです。(ちなみに、私立、塾に通うことも、結局は同じシステムであり同じ場所に辿りつきます。)

 

現在の、義務教育における「評価」は、「記憶力」「○×選択判断力」「我慢強さ」に偏っていると私は思います。

他者の意図を読む力、集団への寄与できる能力が高ければ高いほど、この義務教育システムで、高い評価を得ることができます。

まさに、どの子も皆同じ箱の中にぎゅうと「押し並べる」という作業なのです。

例えれば、形も違い、輝きも違う原石を、同じ技術と同じ時間に磨き続け、同じ形の同じ輝きを放つ石にしているということです。

そこに本来の輝きが無くても、これは高価な価値があると宣伝すれば、皆がそう信じて疑わないでしょう。

違う原石を「同じ加工した石」にしていく教育活動は、かならず、問題を生み、限界が来ます。

 

何かを決めつけていく教育は、子どもの才能と可能性を自分で伸ばすことのできる教育ではありません。

私が子どもなら、記憶力、他者との競争に自分のエネルギーを費やし集中するよりも、あらゆる機会のなかで、他者やものと関わることで、自分の才能を見つけ、磨いていくことに集中して努力したいと素直に思います。

それに、誰にもコントロールされず、自分の意志でやる中で、自分で失敗し修正する機会を望みます。

同時に、他の人の才能を見つけることにも寄与し、互いに磨きあいたいと思います。

このようなシンプルな環境を確保することが、この現代に生きていて、これほど困難なことなのでしょうか。

 

 

私は、人は成長するために生まれてきていると思っています。

新たな価値に気付き、発見し、自己を成長させるのです。

子どもを見ていると、自分の成長を拒む子なんて1人もいません。

それぞれの違いのなかで、皆が「自分を高めたい」というエネルギーを発しているのです。

それは、大人がわざわざ「評価」を行い、無理やりひき出さなくても、すでにひき出されているのです。

 

好きなことに夢中になって取り組む子どもの目は、輝きます。
その集中力は、時間を忘れて没頭しています。

その自由度があれば、子どもは確実に伸びてきます。飛躍します。
自分の才能に自分で気がついて、表現するようになります。

その子が一人、日本に現れるだけで、時代は大きく動くと私は信じています。