発達障害とは、15年ほど前から教育現場に普及し始めた概念です。

ここ5年ほどで、現場への「発達障害」の認識が十分に
浸透し、教師の意識改革と具体的な組織が作られてきました。

 

この「発達障害」という概念は、欧米から伝わったものであり、
今では、義務教育現場だけでなく、病院、その他の機関も連携
した対応がなされています。

 

 発達障害とは、発達障害者支援法には「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と定義されています。【参照:文科省定義】

現場では、「特別な支援が必要な児童・生徒」として、
できるだけ、早期に見つけ、親との面談を繰り返しながら、
集団に馴染めるように、個別指導計画を作成します。

現在は、早期に見つけることは、良いことであると
「大人の発達障害」という概念をもちだすことで、
親と教育者を煽っています。
http://child-neuro-jp.org/visitor/sisetu2/sisetu.html
【NHK:大人の発達障害】

 

検査を受けていなくても、その傾向がある子は、
グレーゾーンとされ、指導の工夫が求められます。

担任だけでなく、組織としての対応が求められています。

では、その傾向のある子どもたちは、今、
現場でどのように過ごしているのでしょうか。

私の目の前にいる子が、言いました。
「自分でも、どうすればいいかのか分からない。」
その言葉を静かな声で言った後、涙が頬をつたいました。

黙って、静かに、体を動かさずに、生きている
ことが辛いと。

このような、SOSを発している
子どもは、全国にもたくさんいるはずです。
注意深く観てください。

 

私は義務教育現場において、今、1番懸念していることがあります。

それは、現場において、幼少期から、
「特別な薬」を服用する子どもが、益々多くなるということです。

それも、その子に適応するまで保護者、医療、その他の機関と
連携しながら、進められるのです。

この光景を、信じられるでしょうか。

この5年ほどで、教師の意識改革が進み、
日常のように、このような話題が飛び交うことに、
誰が疑問をもっているのでしょうか。

1番苦しい思いをしているのは、子どもなのに、
なぜ、そこに気が付かないのでしょうか。

そして、益々、別の教室で学習する子どもたちが増えるでしょう。

 

社会にとって、教師にとって、親にとって、
子ども1人1人は皆、「特別な存在」です。

特別ではない子なんていないのですから、
この「特別な支援を要する児童・生徒」という概念は、
教育者として、捨てるべき概念です。

 

では、なぜ、義務教育現場で「特別な支援が必要な児童・生徒」
として、「発達障害」と呼ばれる概念を作るのでしょうか。

そのように1人の人を、カテゴライズするのでしょうか。

それは、「普通」と「その他」という境界線を作り
出来るだけ、人間関係を分断することに繋がっています。

人は、人との「違い」の中で、より多くを学び、
自己を知るようになります。

ここでは、詳細は述べませんが、人を「同化」させる傾向にある
義務教育制度にとっては、なくてはならない概念です。

私は、この曖昧な概念は、持つべきではないと
声を大にして言いたい。

なぜなら、誰もが、都合よく当てはまるからです。
それは私自身も含みます。

例えば、突き抜けた才能をもっている子も、
「あの人は、発達障害だから・・・」と周囲から
思われるようになります。

 

互いにその才能から学ぶことをせずに、その概念を置くことで、
相手のことを既に知っていると認識してしまい、
本当の関わりが遮断されます。

今、教育書コーナーに行くと、発達障害の本がずらりと
並んでいますが、本を読んでも絶対にその子の理解は図れません。

 

今後、この発達障害による概念の定着により、
義務教育界に、大きく医療機関が介入してくるはずです。

現在では、小児神経専門医が診断をします。
http://child-neuro-jp.org/visitor/sisetu2/sisetu.html
【参照:日本小児神経学会】

この受診率が上がっていることから、
町の医者が診断を下せるように、研修も進んでいるそうです。

義務教育の現場では、様々な策定や政策、方針を受けて、
教師がそのために、自分ができることを末端で全力で取り組みます。

その政策が理に適ったものなのか、そうではないのか、
子どもと保護者と直接に関わり実践してくのですから、
その手ごたえは、今、子ども・保護者の目を直接見ているからこそ、
掴むことができ、私は、はっきりと子どもにとって、
この概念は必要ないと言えるのです。

 

子どもの目を殺してはなりません。

子どもの感性と知性を奪ってはなりません。

それは、私たちから続く生命を奪うことであり、
普遍的な教育の価値からは大きく外れていることに
私たちが、今、気付かねばならないのです。